名取老女と熊野那智神社 後編
前編では、治兵衛と羽黒飛龍の出会い、そして梛の葉に書かれた熊野権現の手紙を受け取った名取老女のお話をしました。長い歴史を歩んできた熊野那智神社とその誕生に欠かせない名取老女。つづく後編では、熊野三社や老女の謎に迫ります!
熊野三社の誕生~全国でも珍しい紀州熊野の「写し霊場」~
熊野権現が梛の葉に認めた手紙を山伏から受け取った名取老女。年を取り、今までのように熊野の地へ参詣できずにいましたが、毎日欠かさず礼拝を行い、熊野権現もその姿をしっかりと見ていたのですね。
さて、手紙に書かれた言葉とそのお心遣いに感謝した老女は高舘の地に社殿を建て熊野三社の御分霊を勧誘しました。その三社とは、今も東北の熊野信仰の中心地として名高い「熊野那智神社」「熊野本宮社」「熊野神社」です。
三社を合祀せず、熊野古道で結ばれている「熊野本宮大社」「熊野速玉大社」そして「熊野那智大社」からなる紀州の「熊野三山」と同じ地理・方位関係に勧請しているのは全国でも名取だけ。
仙台湾を熊野灘、名取川を熊野川、高舘丘陵を熊野連山に見立てて建てたことからも、紀州熊野の「写し霊場」であることがわかりますね。その珍しく貴重な存在は、東北の熊野信仰の中心地として名を馳せ、周囲には宿坊が立ち並び町も大いに栄えたそうです。
穏やかに同居している二人の神様
治兵衛が羽黒飛龍を御神体としてお祀りした高舘山の地に、今度は熊野権現からの手紙をきっかけに熊野那智神社を建てた名取老女。それゆえ、神社の第一主神は羽黒飛龍大神、第二主神は熊野夫須美大神となっています。
基本的に、主祭神は一人の神様がお務めになられます。一人の神様をメインとするため、その他の神様は脇を固める役割を担われることがほとんど。神社によっては、熊野夫須美大神のようにあとから勧請された神様が主祭神となり、それまでメインだった神様が脇に回られることもあるのだとか。しかし、熊野那智神社では羽黒飛龍大神と熊野夫須美大神がそれぞれ、第一、第二主祭神となり穏やかに同居されていることから、互いに寛容でどこか微笑ましい様子が伺えますね。
そして、治兵衛と名取老女は300年の時を経てなぜ同じ霊場を選んだのか。それは古代よりこの地で神様をお祀りしていた痕跡があり、はるか昔から霊的に特別な場所だったからではないかと考えられています。治兵衛も名取老女も名取出身の地元の人物。なので、2人とも幼い頃よりこの地の由縁を自然と知り、神様をお迎えする場所に相応しいと判断したのでしょう。
実は巫女だった?謎につつまれた名取老女
名取老女は今でも多くの謎につつまれた人物です。名取の「老女」ではなく、「老尉(ろうじょう)」で実は男性だったのでは?と多くの神様がそうであるように、性別も明確にはわかりません。「アサヒ」という名前だったそうですが、「旭」や「朝日」とも言い伝えられています。
若かりし頃は、東北から紀州熊野まで参詣していたことから、おそらく巫女のような存在だったのではないかとも言われています。道中に各地で託宣を下ろし、祈祷で病気や人々の心を癒すことを生業としていたのかもしれませんね。
また、老女に手紙を渡した山伏ですが、一説には鳥羽天皇の使者であると考えられています。老女の病を癒す力を耳にした天皇が、皇女の病を治すため京都まで老女を連れてくるようにと使者を派遣したのだとか。高齢の老女は何度も断ったそうですが、最終的には京都へ向かい無事に病を癒し、その褒美として朝廷の許可を得て正式に熊野三社の御分霊をいただいたとされています。
「名取老女」の呼び名が生まれたのも、この参内がきっかけとされています。皇女の病を癒す際に無位無官のまま宮中に参上させるわけにはいかないとなり、侍女の筆頭である「老女」の位を与えられ、名取老女と呼ばれるようになったそうです。
まだまだミステリアスな名取老女
今から約900年前に存在していたと言い伝えられている名取老女。名前や性別も未だはっきりと分かりませんが、それゆえに大変興味深い人物となっています。交通の便が徒歩しかない当時、女性の足で名取から紀州熊野まで何度も参詣していたことからも、とてもたくましく芯の通った人だったのかな、と筆者も書いていて思いました。まだまだミステリアスな存在の名取老女について、みなさんもぜひ調べてみて下さいね!
執筆者
なぎの会HP管理人のacoです。香水づくりとWebライターとして日々奔走中の関西人。なぎの会の活動内容や神社の歴史をお伝えします。noteでは、好きなこと・日々のことを綴っています。
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