温かい宮城ー震災から10年を経てー
10年。一言で表すと短くシンプルですが、その長い月日の間にどれだけの出来事が起こるのか。子どもの成長に例えると、赤ちゃんから幼児になり、小学校高学年になる年齢ですね。
時間の経過だけに目をやると記録にすぎない数字も、人間の成長に例えると多くを学び一進一退を繰り返しながらも前進していることがわかります。
今回は、10年という一つの区切りを迎えた東日本大震災について書きます。一つの世代が終わり新しい年を迎えるような、新たな出発点でもある2021年。今までの歩みとこれからの新しい10年に向けて、震災が私たちにもたらすものって一体何なのでしょうか。
温かい東北 宮城との出会い
さっそくですが、冒頭に「震災について書きます」と宣言しておきながら、ごめんなさい。今回、筆者は執筆にあたり、とても時間がかかってしまいました。ライターとしてどうなんだ!?と石を投げられてもおかしくない状態です。しかし、関西在住で2011年3月11日は日本にすらいなかった筆者です。
「日本が、東北が大変だ!」とテレビやニュースを通して、無事を祈ることしかできなかった自分に、一体何が書けるのか。自問自答を繰り返していると、満開だった桜がいつの間にか新緑へ姿を変えていました。
そんな悶々としていた状態を、ポンっ!と開いてくれたのがお世話になっているなぎの会の方々です。「日本にいなかったとか関係ないから。思ったままに書いてくれていいから。」サラッと電話口で流れてきたこの言葉は、筆者がはじめて宮城県を訪ねた時に感じた「人の温かさ」を思い出すきっかけとなりました。
はじめて宮城を訪れたのは大学4年生の夏。大学院受験生だった当時、散々な試験結果に意気消沈して乗った帰りのバス。「あぁ、全然あかんかった...」と肩を落とし、車窓から杜の都をボーっと眺めていました。
そして仙台駅に到着し、他の乗客がみんな降りてから、運賃箱に向かうも、乗車賃と一緒にお守りの指輪を入れてしまったのです。面接があったので、念のため外しておいた指輪がポケットに残ったまま、小銭とまざってしまいました。
「あっ!!!指輪!!!」
声を上げて気付いたのは私。ではなく、運転手さんでした。言われて初めて気付いた私は、どれだけ試験結果に動揺していたのか、今では笑っちゃいます。
「ターミナルに戻らないと運賃箱を開けることはできないから、指輪が見つかったら後日大阪に送ってあげる!ここに住所書いて!」となんとも親切に対応してくださった運転手さん。受験失敗を確信していた私に、その温かさがどれだけ染みたか、今でも忘れません。
のんびり、ゆったり、宮城タイム
その後もトイレでスーツから私服に着替え、ビルの出口を出た時に「あっ、メガネ忘れた!」ともう自分の腑抜け加減に腹立たしく、心の中で「ほんまに、なんでやねん!」と盛大にツッコミながら引き返すと、「お姉さん、これ」と清掃係のおばさまがメガネケースを渡してくれました。
イチゴ柄のそのメガネケースは、紛れもなく私のものでした。「仙台、すごい、ミラクル、温かい...」
受験はダメだったけど、この街に来てよかった、この街の人が好きだ、と噛みしめながら、色とりどりの七夕飾りで彩られた仙台駅を後にしました。
はじめての東北だったのもあるのでしょうが、その後も宮城を訪れる度に「アットホーム」という言葉が道中ずっと浮かびます。歩くのも話すのも早い関西人の私は、ワンテンポと言わず、スリーテンポほどゆとりを持つことを心がけて宮城を旅するのですが、これが新鮮で「宮城タイム」と密かに呼んでいます。
のんびり、ゆったり。よそ者だからそう見えてしまうのかもしれませんが、どこか悠々とした空気が宮城の街には流れている気がするのです。
「アットホームで温かい宮城」を初めて訪れてから8年近く経っていた昨年。ひょんなことからそのご縁が再びつながり、今こうしてなぎの会ホームページ作りを担当させていただいています。
それも私が「言葉と香りで生きていきたい!」と、でも、目に見える実績なんてないに等しい時に「ホームページ作って!」とある日突然お声をかけていただいたことから始まりました。そして、マイペースながらも毎月記事を書き、熊野那智神社ファンのみなさんにこうして読んでいただけること、本当にありがたく嬉しいです。
正解のない震災がもたらすもの
筆者の「宮城大好き!」特集みたいになってしまった前半ですが、本題の震災に戻ると、「なぜ?」「なぜ起る?」と、怒りや悲しみが膨らんでいくのが正直なところ。つい最近も震度5強の地震が宮城を中心に東北を襲いました。筆者はネットニュースとテレビを交互に噛り付く勢いで見ながら、大事な仙台の友人たち、熊野那智神社、温かい宮城の人たちを想い「無事でいてほしい」その一心で祈り続けました。
だけど、「祈ることしかできないのか」と無気力になることもあります。被災者ではない私にできることって?と自問しても、何かすぐ動けることもなく情けなくて仕方がない。10年前の3月11日もそうでした。
大学生だった当時、アルバイトでお金を貯めては世界を放浪していた私は、フランスとイギリスの旅を終え、オランダの空港にいました。余ったユーロを使い切ろうと、売店で雑誌やサンドウィッチを買い、免税店なのでレジでパスポートと航空券を見せると、レジのおばさんが「あなた日本に行くの?!」と叫び、後ろに並んでいたビジネスマンや旅行者もBig Disaster!(大災害)と口々に叫びました。
「今すぐ家族に連絡しなさい」と周りの欧米人に言われるがまま、「これはただ事ではない」と確信し公衆電話へ走りました。帰国すると空港はパニック、テレビからはこの世のものとは思えない、何もかもを飲み込む津波の映像が全てのチャンネルから流れていました。
防ぎようのない自然の威力に、ただひれ伏すことしかできないのか。なんで罪のない人たちの命をいとも簡単に奪ってしまうのか。「なんで、どうして」を繰り返す日々を、きっと多くの人が送ったことだと思います。
責めなくていい、そのままで大丈夫だから
日本にいる誰もが経験したことのない災害規模の東日本大震災。そのあまりの衝撃の大きさに、どう向き合ったらいいのか、みんな無意識にずっと答えを探して10年という節目を迎えました。「これだ」と確信を持てた人も、「まだわからない」という人も、みんな平等に10年の月日が流れ、今日に至ります。
冒頭でも述べたとおり、今回は「被災者じゃない自分が震災について語るなんて」と、どこか「慎むべき」といった意識を拭いきれませんでした。でも、今回石巻出身の友人に教えてもらったのですが、被災地でも被害の大きさによって同じような気持ちを持っている人たちがいることを知りました。
津波で家を、大事な家族や友人を失った人もいれば、そういった経験をせず被災された方もいます。だけど、テレビやニュースで取り上げられるのは前者の方が圧倒的に多い。何か大々的な被害を受けてないと、たとえ同じ被災地にいても震災について語ることのもどかしさがある。
そんな迷子になった気持ちに違和感を覚えつつも、それを当たり前だと思い込もうとがんばった10年間でもあったんですね。こうして目に見えない心の中にも、震災は爪痕を残してきました。
被害の大きさに関係なく被災された方、そして震災を経験しなかった方も、みんな10年間がんばりました。まだまだ想像以上の痕跡が至るところで見られる震災ですが、この10年という節目で、それぞれの思う震災に区切りをつけ、新たなスタートを切れることを願います。
「私なんて」と自分を責めなくてもいい。そのままで大丈夫。みんなはじめてだった。表には出さないけど、みんなそれぞれがんばった。きっとあなたの自分に厳しく、思いやりのあるやさしさは神様も見てくれているはずです。
執筆者
なぎの会HP管理人のacoです。香水づくりとWebライターとして日々奔走中の関西人。なぎの会の活動内容や神社の歴史をお伝えします。今回は8年前にはじめて訪れた宮城の地を、記憶をたどりながら振り返りました。写真も当時撮ったものです。筆者にとって宮城は温かい東北の地。人の温もりを感じる地。改めて、ご縁に感謝します。
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